ヒロシマの限界
8月6日である。広島に原爆が投下された日だ。
きのうからテレビの特集が続く。
きのうのNHK、きょうの昼の朝日系で、どちらも、「被爆体験者が少なくなり、また、被爆体験を聞く人が少なくなった。学校などでも被爆者の話を聞く場を設けなくなった。被爆体験を聞きたくない人も増えた」と報じる。
戦争を知らない人に、戦争の悲惨さを話しても他人事なのだろう。
ある教師は、「被爆して全身が焼け爛れた人間の写真を子どもに見せて、子どもたちの心が傷つく方が心配」と言う。
教師の思いも分からないではない。
だが、実際に起こった史実を子どもたちに隠す方が罪は重くないだろうか。何事もなかったことにして、やり過ごす方が無難だという考えには賛成できない。
彼は、自分の教室の「いじめ」も見て見ぬふりでやり過ごすのだろうかと思ってしまう。
「被爆体験の語り部の減少」の番組を観ていて感じた。自分の思いを押し付けても他人はついて来ない。「こんなに悲惨なのだ」と叫んでも、悲惨な目に遭った人以外は共感できないのだ。
そう思った。
昔の話だが、丸木俊さんの絵本(写真)を、何十冊も買って、人に差し上げた。
貰ってくれた人は読んでくれただろうか。
「ありがとう」と持って帰ったが、どうしたのだろう。たぶん、そこらにポイ、が大方だったろう。
しかし、ぼくは良い事をした、と満足していた。こんなことで平和に貢献していたと誤解していたわけだ。被爆者でもない、戦争も知らない、ぼくが、何を語っても共感を呼べるわけはないのにね。
若気の至り。
今ごろ、気がついてどないするねん!
昔々、8月6日に広島に行った。式典に出席するためだった。
「ヒロシマね」「そうヒロシマだ」
灼熱の蒼天見上げ駅頭にいる
その時、こんな短歌を作ったことを思い出した。
歌は悪くない。ここに30歳代のぼくが見える。ナルシズムに満ちたぼくが見える。
そして今、ナルシズムの欠片もないぼくが、ここにいる。