七本木池開墾記念碑
明治20年代の半田地方一帯は、養蚕業が盛んだった。蚕(カイコ)を飼い、蚕の繭(まゆ)から生糸を作る作業である。
養蚕は、この地方の農家の格好の副業だった。農家の天井裏や中二階では蚕を飼う棚が造られていた。今もこの地方の古い家屋には天井の低い中二階があるのは、この名残りという。
蚕は生き物である。この飼育はなかなか大変な仕事だったようだ。
特に蚕は桑の葉しか食べない。だから、たくさんの蚕を飼うためには、大量の桑がいる。
半田近辺の桑は採りつくされて困っていた。
「桑が足らない」。
そこで乙川村の有志が立ち上がり、桑の木を増やそうとした。当時は地域のため、みんなのため、損得抜きで頑張る人が乙川村にはいたのだ。当会に文書が残るが、全費用は入口喜太郎を中心にした個人の持ち出しだった。
ちなみに入口喜太郎のご子孫は、現在、乙川で「入口屋」という青果店を営んでいる。
さて明治期。半田のはずれに、七本木池という広大なため池があり、その周辺は一面の雑木林だった。その一面の雑木林を開墾して、桑畑にしようというのだ。
乙川村の有志たちは2年の歳月をかけ、手弁当で開墾作業に従事した。
そして見事! 明治30年、広大な開墾地が出来た。桑の木を植えた。そこに記念のため、みんなのご苦労を労うため、その顛末を刻んだ開墾碑を建てた。
しかし、時代が移り、蚕は必要なくなる。そして開墾の汗への感謝も忘れられ、開墾碑も雑木林の中に放置されていた(写真①)。
戦中、戦後。80年も忘れられていた開墾碑が発見された。
というか、はんだ郷土史研究会の有志が探しに行って発見。(写真②)それは平成18年秋。
そして平成19年春。雑木林から人の目に触れることのできる「はえみ街園」に移築(写真③)。
その4月2日、お披露目会を挙行。バンザイ! 写真中央、濃紺のスーツ姿は当時の半田市長・榊原伊三氏(写真④)。その左の茶色の服が蟹江正行・当会会長。
それから8年。今度は忘れられないように、毎月1回、はんだ郷土史研究会の幹部が当番制で清掃に行っている(写真⑤)。一度も欠かさず行っている(はず)。
今は、こうしてがんばっているけど、こんな地道なことは永久に続かないだろう…、と情けないことを考えている。まぁ、弱気にならず淡々と続けるさ。「功名また誰か論ぜん」だ。
*開墾碑は七本木池の北の県道沿い。日本福祉大学へ向かう道の上池側の小さな「はえみ街園」の一角にある。車は停められない。
一度、見てほしい。