全国で三番目に古い万葉の歌碑を建てのは陰陽師

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秀吉に追われた陰陽師の一族が少なくとも600人以上(記録にあるのは127人)が木曾三川の沿岸部(清洲が拠点)に来て、秀吉の指示で護岸工事などに従事していた。
その後、木曾三川沿岸から今の名古屋市港区、知多市、東海市、安城市の周辺に移住して根付き、村落を形成して栄えていった。
陰陽師は「博士」。相当に優秀な頭脳をもち、天文、土木などあらゆる知識や経験も豊富だったことは知られていることだ。
その証拠ともいえる一つが写真の歌碑だ。
 東海市高横須賀町諏訪神社にこの万葉の歌碑を建立したのは陰陽師・吉田定興である。

   「年魚市潟 塩干家良思 知多乃浦」
    年魚市潟 潮干にけらし 知多の浦に 朝漕ぐ舟も 沖に寄る見ゆ
 
 文化15年(1818)の建立のものだ。
 碑の裏面に「文化十五歳春吉田定興建之并書」とある。この吉田定興とは、「この近くに住んでいた陰陽師(=東海市史)」というが、よく調べると諏訪神社の境内に、諏訪神社と吉田家の境界を示す石盤があった。それから考えれば神社と彼は一体だったとも思える。
 もっと驚くべきは、この万葉の歌碑としては全国で3番目に古いものである。まだポピュラーでなかった万葉集の中から「年魚市潟=知多の浦」をピックアップして歌碑を建てたのだ。
陰陽師の教養の深さが偲ばれる。

 知多半島の幾つもの村の村長や庄屋を務めている陰陽師。彼らが豊かで勉学も好む知多半島の文化を創ったのかもしれない。そう思っている。

*写真左は新しい万葉の歌碑。その右に文化16年に建立した古い碑がある。写真右はその全体。

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