吉原遊郭 尾張屋清十郎こと松本清十郎
ここ数回、当会の『ふるさと講座』では、「新吉原遊郭と尾張・南知多衆」と題して、新吉原遊郭を〝建設し〟〝遊郭を支配した〟のは松本清十郎を筆頭にする知多半島の須佐村の男たちだった、という講座を続けている。
思えば、この件を発見したのは10年ほど前、以来、各地の講演などを含め、何十回もこの発表をしている。
但し、ぼくの話が既存の伝承とは違う、いわば新発見であることからだろう、皆さんは、なかなか素直に受け入れてはくれていないようだ。
そして再々、松本清十郎について「実在の人物だったのか」などの質問が来るので、ここで少しだけ書いておきたい。
今回は清十郎のプロフィールと当時、江戸で彼がどのようなものであったかのかを文献からみてみる。
★松本清十郎(尾張屋清十郎)
揚屋清十郎と呼ばれることもある。(不明~元禄5年(1692))
尾張国知多郡須佐村高浜の出身、神官、禰宜左ヱ門の子。小佐村に寺院を寄進しているので、小佐村の出かもしれない。禰宜左ヱ門は土御前社など須佐村、小佐村、中須村などの神社を複数掛け持ちする宮司だろう。
明暦2年(1655)の新吉原遊郭誕生と同時に、揚屋「尾張屋」に主人となり、他の須佐村出身者(分かっているだけで14軒)のリーダとして存在した。揚屋は宝暦の頃には吉原ではなくなる。最後の揚屋は「尾張屋」で、この時の主人松本清十郎は3代目だろう。
★吉原遊郭の中の清十郎
①、『吉原大全』に下記の記述。
寛文七年の犬枕に、ふかきものゝ部に、「あげや清十郎」と見ゆ。その住家の大なるも思ふべし。
②、尾張屋清十郎の庭に、「通う神」の道祖神(地蔵堂?)があり、吉原の遊女たちの信仰を集めていた。遊女たちが客に手紙を送る時、綴じ目に「かよふかみ かわんじゃう」(=通ふ神 勧請)と書くと、手紙が無事に客の許に届き、願いが叶うとされ、それがひろく遊里の倣いとなっていた。
③、吉原には井戸がなかったが、最初に井戸が掘られたのは尾張屋の前だった。
『吉原大全』から。
元禄宝永の比。紀伊国屋文左ヱ門といゝし人。あげや丁・尾張屋 清十郎かたにて。はじめてほりぬき井戸をほらせしに。水おびたゞしく湧き出。ことさら名水なりければ。皆々この水をよび井戸して遣ひけり。中の丁のすへ。呼戸樋(よびとい)のとまりなれば。水戸尻といふ。紀文此井をほらせし時。祝義として。舛にて金銀を斗(はか)り。まきちらしけると。今にかたり伝へ侍る。
④、井原西鶴が『好色一代男』の中で次のように清十郎を書いている。つまり当時のベストセラー作家がモデルにするほど有名だった。
まづは吉原の咄聞きたし 新板の紋尽し 紅葉は三浦の(高尾)太夫と 評判記なるものを読むが早いか 心ときめき 花の散らない先に さあ 出かけよう と吉原をめざして 一目散 大門口の茶屋 揚屋尾張屋清十郎方にいけば さすが 御名は 予てより 受け給わっておれば 八畳敷きの小座敷に案内するのでありました
⑤、江戸の毒婦を代表する「妲己(たっき)のお百」。歌舞伎・浄瑠璃・怪談で有名。世にもまれなる美貌だったという「お百(於百)」は、清十郎の後妻になっている。そして数年後、お百は佐竹藩の重臣の妾に譲り渡された。(=秋田騒動になる)
等々、明暦から元禄にかけて松本清十郎はスーパースターだったことがよく分かる。この清十郎を掘り下げていけば「新吉原遊郭誕生の謎」も解けてくる。
さて、この続きはまた。