吉原遊郭を支配した南知多の男たち。
「吉原遊郭を支配した南知多の男たち。」
かつて週刊誌の記者だったぼくは、思わせぶりな見出しを書く性が、今だに抜けてないようだ。
でも標記はほんとうだ。吉原遊郭を支配したのは間違いなく南知多の男たちだった。
7月7日。絵入本学会(絵本・絵草子・絵画・浮世絵などの学会)の野外踏査で南知多へ。いわずと知れた吉原の支配者の亡霊に会いに行くのである。
一行は大学教授と研究者。自分の研究対象以外は興味も示さない、反面、興味のある事象に直面すると、他人のことなどほったらかしで没頭する。実にわがままな学者ばかり、合計21名。
それを引率するぼくの気苦労、わかる?(笑い)
さて、吉原と南知多の関係の証拠だが、
元禄期の記録には、吉原遊郭に22軒の揚屋、妓楼があった。そのうち18軒の経営者が南知多の人だったことが過去帳で確認でき、そして寺社への寄進物などで裏づけも得られている。
その多くは南知多町の須佐村と近在の人だ。
18軒以外の残りの4軒は不明。だから、これらの店も南知多関係かもしれない。すると吉原の全部の揚屋、妓楼が南知多の人、という可能性もある。
そんな証拠の確認に、延命寺→羽豆神社→光明寺→正衆寺→岩屋寺と回った。
どの寺社にも「吉原の主」と言われた尾張屋清十郎や、「吉原の地頭のごとし」と言われた千賀志摩守の遺品がぞくぞくと見ることができた。
写真の香炉は吉原在住の南知多の人が岩屋寺に寄進したもの。
づらりと書かれた寄進者の中に、何と花魁の名も。(花魁が楼の主人と並んで、こんな寄進物に名を出すのは珍しい=某学者)
まさに「壁と吉原 スサでもつ」の里謡の通りだ。(スサは壁の補強材の簾と須佐村を指す。)
さて、続きは近日に。
*写真のもう1枚は「千賀氏の墓所」20数基のお墓が並ぶ。