唐獅子牡丹の飛田勝造と中島飛行機

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 「吉原遊郭と南知多」の論文が一息ついた。
 本日刊行の『知多半島郷土史往来』4号でご覧いただきたい。
 当HPの「当会関係出版物」に目次など。

  ○
 長く、お蔵入り同然になっていた「中島飛行機 終戦始末記」を書こうと資料を引っ張り出した。
 そして思い出したのが、この人に遭って筆が止まったことだ。
 面白い! しっかり取材をしなければ… と思い、1年が経ってしまっていた。

 その人が飛田勝造。又の名は飛田東山。「東山先生」で知る人ぞ知る傑物である。

 一番分かりやすい例が、高倉健主演でお馴染みの「唐獅子牡丹」のモデルがこの東山先生だ。もちろん、背中一面には立派な唐獅子牡丹の刺青が入っている。
 この映画化にあたり、高倉健が10日以上も東山邸に泊り込みで役作りをしたという話もある。おそらく健さんは東山に私淑したのだろう。
 ともかく凄い男だ。

 東山先生はヤクザを嫌い、本人は町奴を自負し、弱い者の味方である。戦前、戦中は日雇い労働者、いわゆる土方に賃金規定や身分保障などがないのを嘆き、それを組織した。
 
 その土方集団が東山の一声で動いたのが、昭和19年12月7日。昭和東南海地震で中島飛行機半田製作所が大被害を受けた時だ。

 貨車9台に人夫と道具を満載して、東山は半田に到着。
 「かかれ!」とばかりに地震で倒壊した工場、倉庫、機械類を整理した。
 「御国の為に、飛行機の生産を一日たりとも止めてはならぬ。土方も御国のために働くのだ!」が彼の檄である。

 たった3日で半田製作所は復旧、記録を見ても飛行機の生産台数は減っていない。

 そして飛田東山、多くの部下を率いて黙って帰っていった。

 ♪義理と人情をはかりにかけりゃ 義理が重たいこの世の世界~

 男の中の男やな~、と思わず一声かけたくなる実話。
 これをノンフクションを書く者が見逃すわけにはいかない。ーということで原稿が遅れておりましたと言い訳をするのは、とても男とは言えませんなぁ。

 ついでに中曽根首相とレーガン大統領が会談した多摩の「日の出山荘」は東山先生の持ち物。政界ともしっかり絆があった唐獅子牡丹であったわけだ。

 この話。初雪が降るまでに本にします。
 男・西まさるが約束します。 (?)

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