家康、伊賀越えの後の足跡
本能寺の変の直後、堺にいた家康は自国の岡崎に帰るため一目散に逃げた。有名な「神君伊賀越え」がこの時のことだ。伊賀を越えた家康一行は白子港から船に乗って・・・・。
ここで現在、常滑・大野の郷土史家が大騒ぎなのである。と言うのは、来年のNHK大河ドラマ「どうする家康」では、どうやら「家康一行は白子から船に乗り、知多半島には上陸せず、三州の大浜に行った」の筋書きとなるらしいからだ。
常滑市、特に大野では家康の上陸が当然であり、町おこしにも役立っている案件なので、これは看過できぬわけだ。
家康の「白子から岡崎への足跡」はいくつもある。そのうち有力な説、特に古文書などの記載のあるものを拾うと下記の8つとなる。
①、「桑名から船に乗り熱田の港に着いた」 =信長公記
②、「家康公、伊賀を越えて伊勢白子浦に至り岡崎へ帰る」 =*徳川実紀
③、「伊賀路をぬけて白子から舟に乗り、大野へ上陸なさった」 =『三河物語』
④、「勢州四ケ一の浦より渡海し 船を当みなと(大野又は常滑)に寄せられ」=東龍寺「古過去帳」
⑤、「伊賀、伊勢路を通って逃れ、大浜に上陸」=『家忠日記』
⑥、「白子より乗船し常滑に着するも城主擬色あり、直ちに船を大野に廻し大野東龍寺に宿し」=「半田町史」
⑦、「勢州より四日市、常滑へ御船を寄せたまひ、東龍寺にお着き」=常楽寺『常楽寺文書』
⑧、「家康は堺より岡崎に帰る際、篠島に上陸した」 =「篠島史蹟」
②と⑤は知多半島に上陸していないが、残りの6つのうち5つは知多半島に上陸である。①は桑名から渡し舟で熱田へは東海道そのもので逃避行には無理があり論外だろう。「熱田から船に乗った」のなら別だが。
重要なこと。知多半島は家康の生母・於大の実家・水野家が半島の大部分を支配していた土地。その後、於大が再嫁したのは阿久比・坂部城主・久松。つまり知多郡の大部分は於大や、その親兄弟が影響力を発揮できる土地。だから家康の縁者が何人もいる土地なのである。追われる家康が逃げ込むところは生母の家や従兄弟の家であったとして当然だろう。
④の大野の東龍寺や⑦の半田の常楽寺は家康の従兄弟の家である。
諸兄の判断は如何に。
はじめまして。知多市在住の石原といいます。昨日の大河ドラマで出た地図を見て疑問を感じ、ネットで検索してこのブログに出会い、コメントさせていただきます。私としては、知多半島 常滑を経由して三河に至った説の信憑性が高いと考えております。理由は、当時の船が帆船であることです。知多半島を迂回して直接三河に至るには途中で風向きが大きく変わらねば困難です。日本の帆船に風上に切り上がる能力が全く無いわけではありませんが、多大な手間と時間がかかるわけで、当時の時間が重要な状況を考えれば、途中から風上に切り上がりで苦労して進んだ、とか、師崎や篠島あたりで風待ちをした、と考えるよりは、常滑に上陸し御説のように縁のある土地を越えた、と考えるのが自然だと思います。②は、この知多半島横断を省略した文ではないでしょうか。
石原さま 御説がまさに正論と思います。「どうする家康」は史実を無視するドラマですので余り気にしないようにします。はんだ郷土史研究会は史実を大切にしてこれらの問題を正論化したいと考えています。