尾張屋清十郎
明暦2年、江戸に新吉原遊郭が誕生した時、突如、吉原に出現し、吉原一の揚屋を経営した男がいる。
その人は松本清十郎。店の名が尾張屋だから尾張屋清十郎とも、揚屋を代表する人だから、揚屋清十郎とも呼ばれた。
生国は尾張国知多郡須佐村。今の愛知県南知多町豊浜町である。
清十郎の店には諸国の大名やあの紀伊国屋文左衛門も常連だった。
おっと、揚屋を説明する必要がある。揚屋とは遊女を置いていない店。わかりやすくは、会員制超高級料亭と思えばいい。
吉原に来る普通の客は、お馴染みの赤い格子のある見世で遊女を物色して遊ぶのだが、そんな普通の客とは別に、他人に顔を見られたくない武家衆や旦那衆が揚屋に来る。
揚屋の座敷に上がり、高級遊女・花魁を揚屋を通して呼ぶ。遊女は妓楼や見世が抱えている。
すると、あいや~ と花魁道中が仕立てられる。映画や芝居でご存じのあの大仰な行列である。
そして花魁は揚屋の奥座敷の上客の許に来る。
さて、その尾張屋清十郎が吉原に進出してから、次々と須佐村から揚屋の経営者が誕生した。なんと元禄までに揚屋の大半が尾張の南知多の人たちになっていた。
詳しくは、『知多半島郷土史往来4号』に、西まさるが論文を発表しているのでご参照願いたいが、その後、様々な新情報も入手、ますます面白くなっている。
なんで南知多なのだろう。
それはですな、……今度ね。
写真は、吉原の案内誌『吉原細見』の尾張屋のところ。敷地内に「かようふ神」=通う神、という道祖神があるのが分かる。吉原の遊女は客に手紙を書くが、その綴じ目に「かようふかみ」と書くならいがある。ここから生まれた慣習である。
浮世絵は、妓楼・松葉楼の花魁「代々山」。松葉屋の主人も南知多の人。揚屋ばかりでなく妓楼や一般商店にも尾張南知多衆が大勢いたことが分かっている。
新吉原遊郭は南知多衆が牛耳っていたとも言えそうだ。