戦災慰霊碑
半田市乙川の外れに七本木池という広大な池がある。
その池の外れに写真の大きな像がある。高さは10㍍近いだろうか。三人の乙女が、それぞれ鳩や赤ちゃん? のようなものを頭上にして立つ像だ。
通称「乙女の祈りの像」というそうだが、どこにも書いていない。台座には「空へ」と書いてある。
変な像だ。
ところが、『中島飛行機の終戦』を出版後、数人からお話があり、それを「はんだ郷土史だより」で特集をした。
そのダイジェストを「だより」をお読みでない人のため、一部を紹介する。
「あの像は昭和20年7月24日の米軍の空襲で被爆、焼け死んだ人の霊を慰めるために建てた」。
「空襲の後、あの池には被災者の鬼火が出た。毎夜、青白い火が池の面の一面に・・・」。
「あの像を建てて、霊を慰めると鬼火は出なくなった」。
複数の証言だが、信じる信じないはあなた次第。
ところで、これは信じざるを得ない話。
昭和20年7月15日に海軍からドラム缶200本ほどの油(飛行機用だからガソリンだろうか)が中島飛行機半田製作所に運ばれて来た。
空襲警報が毎日の頃だから、工場に置くには危険。会社はそのドラム缶を牛車に載せ、七本木池の東側の雑木林に隠した。夏だから雑木、雑草がいっぱい、空からは見えないはずだ。運ぶ牛車も草木でカムフラジュー。慎重に移動した。
だが、その一週間後の7月24日10時、夥しい米軍機が来襲、半田製作所の工場、寮などはほぼ壊滅、270人が死亡した。
その時、誰も知るはずのない、何もあるはずのない雑木林を米軍は重点爆撃。200本のドラム缶は大爆発した。
雑木林は近隣住民の避難場所だった。
空襲警報を聞いて、数十人の婦人、子どもが雑木林に逃げ込んでいて、身を寄せ合い災難の去るのを待っていた。
そこに爆撃!
ああ~、ひとたまりもなく焼死である。
米軍はドラム缶の在処を知っていたのだ。
空撮で? スパイが?
それは謎のままだが、
焼死者の大半は近所の婦女子だった不幸は事実だ。
鬼火が出た。
長くなったので、続きは今後。