戦災慰霊碑

ファイル 290-1.jpg

 半田市乙川の外れに七本木池という広大な池がある。
 その池の外れに写真の大きな像がある。高さは10㍍近いだろうか。三人の乙女が、それぞれ鳩や赤ちゃん? のようなものを頭上にして立つ像だ。
 通称「乙女の祈りの像」というそうだが、どこにも書いていない。台座には「空へ」と書いてある。

 変な像だ。
 ところが、『中島飛行機の終戦』を出版後、数人からお話があり、それを「はんだ郷土史だより」で特集をした。
  そのダイジェストを「だより」をお読みでない人のため、一部を紹介する。

 「あの像は昭和20年7月24日の米軍の空襲で被爆、焼け死んだ人の霊を慰めるために建てた」。
 「空襲の後、あの池には被災者の鬼火が出た。毎夜、青白い火が池の面の一面に・・・」。
 「あの像を建てて、霊を慰めると鬼火は出なくなった」。

 複数の証言だが、信じる信じないはあなた次第。

 ところで、これは信じざるを得ない話。

 昭和20年7月15日に海軍からドラム缶200本ほどの油(飛行機用だからガソリンだろうか)が中島飛行機半田製作所に運ばれて来た。
 空襲警報が毎日の頃だから、工場に置くには危険。会社はそのドラム缶を牛車に載せ、七本木池の東側の雑木林に隠した。夏だから雑木、雑草がいっぱい、空からは見えないはずだ。運ぶ牛車も草木でカムフラジュー。慎重に移動した。

 だが、その一週間後の7月24日10時、夥しい米軍機が来襲、半田製作所の工場、寮などはほぼ壊滅、270人が死亡した。
 その時、誰も知るはずのない、何もあるはずのない雑木林を米軍は重点爆撃。200本のドラム缶は大爆発した。

 雑木林は近隣住民の避難場所だった。
 空襲警報を聞いて、数十人の婦人、子どもが雑木林に逃げ込んでいて、身を寄せ合い災難の去るのを待っていた。
 そこに爆撃!
 ああ~、ひとたまりもなく焼死である。

 米軍はドラム缶の在処を知っていたのだ。
 空撮で? スパイが?
 それは謎のままだが、
 焼死者の大半は近所の婦女子だった不幸は事実だ。

 鬼火が出た。
 長くなったので、続きは今後。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です