暑中お見舞い申し上げます

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 猛暑です。お見舞い申し上げます。
 
 2日遅れたが、8月3日はぼくの母の命日。昭和28年8月3日に亡くなった。確か30歳。結核だった。
 この時代は既に結核の特効薬ペニシリンが開発されていて、それは劇的に効いたという。但し入手手段も限られ、相当に高い薬だったという。祖父が田畑を数枚売ってペニシリンを買う金を作った。

 だがその時、母のお腹には弟がいた。ペニシリンの投与は無理だった。
 弟が産まれて、母にペニシリンが注射された。だが既に手遅れだった。
 弟は母に抱いて貰うどころか、母の顔を見ずに育った。

 母の闘病中にぼくは小学校に入学した。
 登校初日の帰り、母の病室に行った。貰ったばかりの教科書をランドセルに詰めて行った。母は全部の教科書にぼくの氏名を書いてくれた。そして全部の教科書に千代紙でブックカバーをしてくれた。
 千代紙で教科書を包む母の手はとてもきれいだった。

 5年も6年も結核療養所で過ごした母だった。だから着飾った母をぼくは知らない。母はいつもネルの生地の寝間着だった。寝間着の模様はたいがい青い朝顔だった。
 青い朝顔は、ぼくにとって母だった。

 母がいつ死んだのか知らない。葬式はどうだったのかも覚えていない。ぼくが子供だったせいもあるがいつの間にか母は消えてしまったような印象だ。
 実家に母が娘時代に使っていた琴がある。座敷の奥に立てかけてあった。それを見て母を思い出すこともあった。

   金泥の長き袋は母の琴 母弾く音色は細かりしかな

 昔、そんな短歌を詠んだことがあった。
 あの琴はどうなったのだろうか。思い出も細くなってゆく。

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