知多市と半田市
知多市の歴史民俗研究会に呼ばれ90分の講演をして来た。
知多市へ呼んでいただくのは、団体こそ違うが、これで4度目、行くたびに歴史や郷土文化を大切にする土地柄であることを実感する。
半田市と知多市は直線なら20㎞も離れていないところ。しかし、文化には大きな隔たりがあるように思える。これは知多半島の西側と東側ということが大きいようだ。それは文化の発生源の違い・・、というと難解かもしれないが、ざっくり言うと伊勢湾に面する半島の西側(知多市・常滑市など)は尾張美濃の影響、衣浦湾・三河湾に面した(半田市など)東浦は三河地方の影響が強い。さらに言えば、西浦側は武家文化、東浦側は商人文化が基本のようだと思っている。
講演後、慈雲寺に案内していただいた。立派な大きな寺院だ。墓地に一色範光の墓があった。なぜここに一色の墓が? と一瞬考えた。そうか南朝時代、知多半島は一色領だったことがある。一色氏は伊勢湾を見下ろす尾張大野の宮山城が拠点だった。
そして、一色氏の後、佐治氏の城となり、今、ぼくが盛んに調べている千賀氏に結びつく。
歴史は曲がりくねっているが一本道のようだ。
知多市では「新吉原遊郭を造り、支配したのは尾張は南知多の男」を話した。その話の質疑応答の時間に訊かれたのは、「黒鍬衆の関わり」のこと、「陰陽師の関わり」のこと、そして「尾張万歳」に話が及んだ。半田市ではとても出てこない質問だ。
直線で20㎞はとてつもなく遠いのである。