若者、ばか者、よそ者と淀殿伝説
地域を活性化させたり、既存のものを革新するのは「若者・ばか者・よそ者」という。当たっているようだ。
それは何もその3者が偉いわけでもなく、特別な能力を持っているわけでもない。ただ、既成の事実をよく知らないから物事を見る視点が既成の人と違うからだろう。
知多半島人歴が10年少々の、よそ者でばか者のぼくは(若者でないのは残念だが)、この地で埋もれた郷土の偉人を見つけ、様々なスポットライトを当てた。
全国的な有名どころでは、清水次郎長、大碇紋太郎、豊田佐吉、榊原亀三郎など。さらに大高源五や新吉原遊郭を支配した松本清十郎ら南知多衆など。
驚くほどの面々だ。
これらの人物の生い立ちや偉業がこの地に埋もれていた。
そして地元の人たちはこれらを既成の生活の中の当然のものとして拾うこともPRすることもしなかったのだ。
善し悪しを言っているのではない。
これを「宝の持ち腐れ」と言えば、ぴったりだろう。知多半島には歴史的な宝がいっぱい埋まっている。
また一つ、宝を発見した。
大阪の陣。大阪城落城。秀頼や淀は城内で自刃したというが遺体も遺書も遺品も発見されていない。
城から脱出したという説もある。
その淀=茶々が千賀水軍の稲生重政により、知多半島の師崎に匿われていた。その詳細は、『はんだ郷土史だより70号』に詳しく書き、また、この2月例会でも話した。
またまた、よそ者でばか者の西まさるが面倒を起こした、と地元の識者は言うだろう。
さて、さて・・・
続きはまたの機会に。
写真は師崎・延命寺の「姫塚」。実は茶々の墓? あるいはダミー。間もなく真相は分かるかな?