石川藤八
豊田佐吉を援助した石川藤八なる人物は全国的には全く知られていないが、地元では「藤八さん」といえば、年配の方なら知っている人も多い。
石川家は代々石川藤八を名乗る庄屋の家である。そのため、戦後半田市会議員、繊維組合、商工会議所等で活躍した九代目石川藤八を知っている方がいるのである。
佐吉と義兄弟の「ちぎり」を結び、服部兼三郎を含めた3人を「三幅対の仲」と言われたのが七代目石川藤八である。この七代目石川藤八は本名を松本市松という。佐吉と出会い、乙川綿布合資会社を設立し、日本で初めて国産の動力織機による工場を本格稼動させた。また、その後も佐吉に対して見返りを求めない援助を惜しみなく続けた。そんな人間が七代目石川藤八という人間であった。佐吉の最も初期の大恩人である。
藤八の生まれは三重県の尾鷲であると言われている。その後知多郡亀崎町の稲生家に一時養子に入いる。そして、六代目石川藤八の養子として石川家に入る。しかし、最後まで母親の苗字と思われる松本姓を変えなかった。その結果、石川藤八家の墓とは別に自分自身で「松本氏累代之墓」を建てている。建てた直後に亡くなったようで、七代目石川藤八こと松本市松は「松本氏累代の墓」に眠っている。