「豊田佐吉と知多郡岡田」その1
豊田佐吉は力織機を発明するまで、日本各地を訪ね歩いている。豊田佐吉が訪ねたという話があちこちにある。東京、埼玉そして愛知。あるいは金沢まである。全てが事実であるかどうかは分からない。 だが、佐吉という男は発明という目的のためならどんな遠いところまでも出掛けるというような人間であった。
明治19年、故郷の敷知郡吉津村(現静岡県湖西市)を鉄道が通ることが決まった。そのため、豊田佐吉が中心に始めた勉強会「山口夜学会」をその年の12月から1年ほど休むことになった。佐吉を除くメンバーは鉄道 敷設の仕事に従事した。しかし、佐吉は一人「何か世の中のためになることをしたい」と考え、模索する日々がはじまった。織機発明のための10年間の放浪が始まったのである。明治20年頃から明治30年頃までの10年間、佐吉は何処で何をしていたか分からない部分がある。その10年の間に、日本各地を発明のヒントを得ようと歩き回ったと想像できる。
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その内の一つが愛知県知多郡岡田である。現在の岡田は多くの蔵や古い街並みがのこる趣のある静かな町である。だが、佐吉が訪れた明治22年当時の岡田は日本有数の織物の町であった。江戸時代より続く織物工場や買継問屋が何軒もあった。中でも、竹之内源助と中島七衛門の経営する二つの工場は特に大きかった。この二つの工場はその当時大変高価であった外国製の織機を何台も持っていた。そして、彼らは従来からの国産の織機も数多く所有し、当時としては非常に大規模な工場であった。また、岡田には織機を研究している竹内虎王という先駆者がいた。
そんな情況の中、豊田佐吉は岡田の町へやってきた。しかし、何のつてもない。そこで、今まで父親の元で修行していた大工として工場の中へ入り込もうと考えた。
佐吉の目的はとにかく織機の仕組みを知ることであった。そのためには大工として工場へ入るのが手っ取り早いと考えたのである。その頃、日本で作られた織機はすべてが木で出来ていた。その結果、織機が壊れた時は大工がその仕事にあたっていた。佐吉はまず大工をたばねる仕事をしている岡田屋に入り込んだのである。佐吉は大工見習いとして入った岡田屋から中島七衛門家の中七木綿に派遣されることになった。(つづく)