豊田佐吉と石川藤八

乙川綿布合資会社

明治28年(1895)、豊田佐吉は愛知県知多郡乙川村の石川藤八の試作工場で力織機の発明に成功した。
この時、かたわらには佐吉が故郷の静岡県の吉津村から呼び寄せた豊田利喜松、岡部類蔵、木下勇次郎の3人がいた。地元の職人も多数いた。もちろん、力織機で一番肝心のスチームによる動力の設置に努力した弟平吉もいた。そして、動力を手に入れるのに一緒に苦労した野末作蔵もその場にいたのは言うまでもない。
佐吉のスポンサーの石川藤八は知多郡乙川村の庄屋である。藤八は庄屋として米をあつかうと同時に、塩などの海産物や綿織物もあつかっていた。特に、綿織物については出機(でばた)織布を手広く商っていた。出機(でばた)織布は1~2台の織機を所有する家、或いは織機を貸した家へ糸を持って行き、布に織ってもらう。その布の織り賃を払い、織りあがった布をもらってくる。その布を買継問屋(大きい問屋のようなもの)へ送る。これが出機織布の仕事である。
藤八は乙川から10数km離れた知多郡岡田村の買継問屋竹之内源助のところへ布を納めていた。竹之内源助は愛知県でも有数の買継問屋である。
豊田佐吉は明治22年(1889)、この知多郡岡田村にいた。竹之内源助と並ぶ買継問屋であるとともに大きな織布工場でもあった中島七右衛門家に佐吉は大工見習いとして派遣されていた。だが、真の目的は外国製織機の仕組みの研究、はっきり言えば技術を盗むことにあった。この時代、誰も織機の仕組みなどを教えてはくれない。技術を盗むことはけっして悪いことではなかったのである。
この岡田で、豊田佐吉と石川藤八の出会いがあったと考えられる。明治27年(1894)に佐吉は藤八をたよって、知多郡乙川村にやってきた。藤八は「男気」を出した。佐吉の研究のための部屋を提供するだけではなく、発明のための資金も充分与えた。
明治30年(1897)には改良を加えた豊田式木鉄混製力織機が完成しつつあった。佐吉と藤八はその年の秋「乙川綿布合資会社」をつくることになった。資本金は6000円、織機の台数は60台と決まった。金のない佐吉のために藤八は自分の所有する土地と工場も用意した。そして、明治31年(1898)春、本格的な工場での力織機による生産が始まった。