豊田佐吉の足跡
トヨタ草創期の大番頭 ―西川秋次―
西川秋次は、豊田佐吉の片腕として活躍した人物である。上海を中心に活躍し、佐吉の夢の実現にその生涯をささげた。
1881年(明治14)12月2日に、愛知県渥美郡二川町三ツ家、現在の豊橋市三弥町で西川重吉の次男として生れる。「重吉さの所の神童」と呼ばれるほどの秀才であった。
小学校を卒業すると先生の勧めで、愛知県立第一師範学校へ入学する。その当時の愛知県立第一師範学校は名古屋市東区にあった。そのため、秋次は時々佐吉の家を訪れている。佐吉の妻浅子が秋次の遠縁にあたるからである。その折、佐吉から事業の手伝いをすることを勧められる。
1904年(明37)に師範学校を卒業する。義務である二年間の小学校教員を勤めた後、佐吉の命により蔵前にあった東京高等工業学校、現在の東京工業大学で学ぶ。1909年7月(明治42)に修了後、佐吉の元で働くことに
なる。
その後の秋次の人生は、失意の佐吉の境遇と重なり合いながら歩むことになる。佐吉は三井の資本による井桁商会での失敗に続き、豊田式織機株式会社においても挫折を味わう。佐吉は希望を見出せないまま、アメリカへと旅立つことになる。その時、ただ一人同行するのが西川秋次である。1910年(明治43)5月8日、日本郵船の因幡丸において渡米する。
そのアメリカにおいて、再び希望を持つことができた佐吉は秋次をアメリカに残し、1911年(明治44)1月1日にシベリア鉄道経由で下関へ帰国した。
だが、秋次は一人、佐吉の意を受け、2年半アメリカに滞在し調査と勉強を続けた。秋次が帰国したのは、明治から大正へと改元された大正元年12月6日であった。横浜へ着いた時には佐吉の弟、豊田平吉と佐助が出迎えに来ていた。
秋次は帰国早々、佐吉から結婚をすすめられる。相手は佐吉の恩人である、乙川村の石川藤八の隣に住む、石川又四郎の娘田津であった。結婚後の秋次と田津の新婚生活は、佐吉家族と一緒の豊田自動織布の工場の中であった。
秋次夫婦は豊田家の家族のごとく過ごした。特に、秋次は佐吉の長男喜一郎・長女愛子からは兄のように慕われた。
佐吉は1919年(大正8)に秋次を伴って、上海に渡航する。上海で豊田紡織廠をつくるためである。中国大陸へと、その事業を広げて行くのは、発明の完成とともに佐吉の夢であった。その佐吉の夢を支え、また実現に努力したのが、西川秋次という男であった。
佐吉が発明と自らの夢を追っていた時、豊田紡織において、実質的に経営を取り仕切っていたのは、長女愛子の婿である豊田利三郎である。佐吉亡きあと、喜一郎は自動車の研究と生産に乗り出す。その莫大な資金を供給したのは利三郎であるが、もう一人、上海の西川秋次も喜一郎の自動車への研究と生産への資金を出し続けた。佐吉の意志を受け継いだ秋次の決断である。
第二次世界大戦の終戦をむかえ、ほとんどの日本企業が中国大陸から逃げるように帰国した。しかし、秋次は中国の国民政府に乞われ在華紡績の事実上の責任者として、1949年(昭和24)3月まで大陸にとどまる。中国大陸に繊維の技術を充分に伝えたのである。
帰国後は妻の田津が待つ、半田市亀崎にある秋次が建てた別邸に落ち着くことになる。名古屋の日新通商(後の豊田通商)に通うために、当初は自動車で、後には武豊線の亀崎駅から列車に乗る姿が良く見られたという。
自動織機の発明者豊田佐吉、トヨタ自動車の創立者豊田喜一郎はよく知られているが、彼らを支えた人達は以外と知られていない。その中で最も大きな存在の一人が西川秋次である。