中島飛行機半田製作所の「戦後」が終わった日
中島飛行機半田製作所の昭和39年の写真を8枚入手した。ご提供くださったのは日比恆明氏。貴重な8枚である。
昭和39年と言えば終戦から19年も後、それなのに戦時中の昭和20年7月に米軍により爆撃されて廃墟となった同製作所の「5号棟」がそのまま残っている。それがこの写真である。
他の多くの工場棟も爆撃され壊滅状態になったのだが、この時代までに整理され空き地になっている。
廃墟の5号棟の周辺がそれである。
おっと、写真をもう一度見てほしい。手前の農地に人が、牛が写っている。
この5号棟だけ解体ができなかったのは、ここだけが戦後賠償の処理が出来ていなかったからだ。さらにこの建物の側で賠償機械なども保管していたからだ。
分かりやすくいえば、この5号棟(一万坪)はまだ正式に日本のものではなく戦勝国の管理下にあったのかもしれない。
翌40年、ここは中島飛行機(富士産業→輸送機工業)に返還(売却)された。
ようやく中島飛行機半田製作所の「戦後」が終わったのである。
*詳しくは「はんだ郷土史だより」3月号に。
