「豊田佐吉と知多郡岡田」その2

中七木綿工場の様子(大正初期と思われる)
「知多木綿発祥の地・岡田 繁栄の歴史」より

豊田佐吉が愛知県知多半島の岡田に来たと裏付ける物証は残っていない。かつては佐吉を大工見習いとして雇った岡田屋に仕事の「当番表」が残されていたといわれるが今は見当たらないという。貴重な資料が失われてしまったのは非常に残念である。しかし、物証ばかりに頼るのはこのような場合は決して正しいとは言いきれない。 明治20年の佐吉は二十歳の青年である。また、学歴も財産も特別な技術もない、全くの無名の人間である。そのような人間の記録をわざわざ残すということは考えられないことである。もし、立派な資料があったとしたら、それは偽物ではないかと疑う必要があるくらいである。
「岡田に豊田佐吉が来たことがある。中七木綿さんの工場で織機ばかり見ていた。全然働かないので放り出された」という言い伝えの方が、ずっと信用できるのではないだろうか。
岡田での言い伝えはこれだけではない。佐吉に関する重要な言い伝えがこれ以外にも残っている。それは山車(だし)からくりと竹内虎王の関わり、虎王と佐吉の織機研究に関する言い伝えである。

 

竹内虎王肖像写真

愛知県の知多半島は全国でも有数の祭の山車が多く残っている地域である。また、その山車の多くに「山車からくり」がのせられている。岡田には3台の山車がある。その3台とも山車からくりを備えている。そのうちの一つ奥組の幸福木偶は何本もの糸で操つられ、倒立をする人形と文字書きをする人形が伝えられている。「この人形にヒントを得た竹内虎王が織機を発明したと言われている。その織機の技術を真似しようと豊田佐吉が岡田へやってきた。佐吉は虎王が創業した丸登織布に勤めたが、織機ばかりを見ていて、仕事をしなかった。そのため工場をやめさせられた」工場の名前が中七木綿と丸登織布と違ってはいるが、二つの言い伝えはいずれも佐吉の岡田での足跡を充分に語っていると言える。
この後、豊田佐吉は1891年(明治24年5月)に「豊田式木製織機」の特許を取得する。
また、1898年(明治31)8月には豊田式木鉄混製力織機の特許を得る。しかし、教えた側(真似をされた)の竹内虎王は豊田佐吉に遅れること六ヶ月経た、1898年(明治31)12月に特許を取得した。
(つづく)