いい本の見本

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 長く編集や執筆という稼業にいたので、今まで、実に膨大な数の本に触れてきた。但し、触れてきたというだけで、読んできたということではなさそうだ。
 思い出すのは駆け出しの編集者時代だ。
 社に送られてくる大量の本を読んで、分類したり、書評の下書きを書いたり、受取り通知を出したりする仕事。新米の編集者が誰でも通る道で、ここで編集者的頭脳が鍛えられるわけだ。
 朝来ると、机の上に本が20冊ほど積んである。
 これを2、3日で読破して書評を書く。書評を書くといっても活字になるわけではない。担当の上司が「本物の書評」や「良い作家探し」が出来るよう、著書の要点を纏める仕事だ。

 20冊を3日で読める……わけはない。
 そこで、例の編集者の斜め読み術が生まれて、鍛えられるのだ。1ページの所要時間は数十秒。しかし、要点、要所、論旨に関わる文言には、ちゃんと反応する。
 これである。

 だから、編集者はろくに本を読まない。熟読などしない。まして、本の造作になど興味を持つ時間もない。
 本に関わりながら、本を軽く見る困った職種なのだ。

 ぼくの書架には三田村鳶魚の本が数十冊ある。
 そのうちの一冊が写真のものである。
 函、表紙、トビラは本物の和紙。それぞれ種類の違う上質の鹿の子紙。(最近の物は和紙もどき)
 本文は洋紙。製本も装丁も控え目で上品。
 これぞ、良い本、の見本のような一冊だ。

 高価な本の見事な造りはいくらでもある。
 派手な箔押し、天金。これみよがしな豪華な函。
 それも悪くはないが、写真の本は380円(昭和31年)のごく普通の本だが、鳶魚翁の並々ならぬ拘りが楽しい。

 かつては新米編集者で、本の内容にしか目が向かなかったぼくだが、やはり老いて来たのだろうか、こんなところに目が向くようになってしまった。
 それにしても、いい本だ。

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