中島飛行機の終戦 西まさる
「中島飛行機半田製作所」を小説にしようと決意したのは確か7年前だった。
切っ掛けは、中島飛行機半田で製造された高性能偵察機「彩雲」を語る会「彩雲に乗った人 彩雲を造った人」の対談イベントだ。
艦上偵察機・彩雲のパイロットだった榊原是久元少尉と彩雲組立工場長の芦澤俊一氏らをお呼びしていていた。
303人の来場にも驚いたが、ぼくの心を揺さぶったのは会場からのこの発言だった。
「私が中島飛行機に徴用されたのは小学校6年生の時だった。私のような子どもでもお役に立ったでしょうか」。
壇上で司会をしていたぼくだったが、思わず目頭が熱くなる思い。それが作家意欲に火をつけた瞬間でもあった。
せっかく付いた火だが、6,7年も経つと消えそうになる。
ところが最近、豊橋創造大学の島田先生が、「早く中島飛行機を書かないと遊んでやらない」と言い出してくれた。
そして、この1週間ほど懸命に書き始めている。
ぼくの決意が揺らがないように、このブログで締め切り表明をしておきたい。
1月初旬に飛行機の組み立て完了。即、離陸。2月には全国の空を席巻? する、つもり。
題名は『中島飛行機の終戦』。
写真は、中島飛行機の社主・中島知久平が開戦前から提唱していた6発の巨大爆撃機「富嶽」。日本を飛び立ち、太平洋を横断、米国全土を空襲できる性能をもった飛行機だ。
大鑑巨砲主義の当時の軍部に嘲笑され実現しなかったが、これがB29より先に生まれていれば戦局は明らかに変わったろう。
中島知久平はこう提案していた。
「米英の国力に対抗できる戦力は日本にはない。このままでは必ず負ける。富嶽を飛ばし、米国本土を空爆。驚く敵にすかさず和平を迫るのだ。それしか日本の勝つ道はない」。
まさに慧眼である。
「軍事力は戦争をしないために保有する」。
しかし日本は神風頼りの戦争をして敗北。日本は焼け野原になった。
昭和20年8月14日の中島飛行機を今日、書いた。
あすは16日を書く。
動員学徒たちは故郷に帰っていった。男子は泣きながら、女子は歌いながらだった。