中島飛行機・学徒「別れの額」

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 日本を代表する軍需工場・中島飛行機が半田市乙川に軍用機「天山」「彩雲」の製造工場を作ったのが昭和18年。工場には各地から徴用工、学徒動員工などが2万5千人が集められた。
 人口5千人の乙川地区が一気に3万人の町になった。
 都市計画は街のかたちを変え、町は軍事色に染まった。米軍の空襲もあった。死者は269名。工場は焼けたが、働く人々の心にはまだ報国意識が高かった。
 空襲から1ケ月もたたないうちに敗戦。徴用された人々は失意のまま故郷へ帰ることとなる。
 半田市亀崎にあった「亀崎寮」から、帰郷する学徒か徴用工が書いた、惜別の額が発見された。額というが額ではない。床の間の上部などにある「天袋」などといわれる細長い襖の裏にひそかに書いたものだ。
 敗戦の無念。友と別れる無念。そんな気持が溢れるものだ。
 一首がしたためられてある。

 『戦負け意に如はらず友を置き 故郷に帰る秋雨の朝』

 当時の学生は侍であった。
 2点出て来たこの額は、「わが家のお宝展」に展示する。「お宝展」は2月20日(土)、21日(日) 乙川公民館で開催。

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