乙川駅の桜の大木
JR乙川駅に桜の大木が5,6本ある。一番大きなものは幹回りが4㍍以上もある古木だ。
この木のことが数年前、「はんだ郷土史研究会」で話題になった。「いつ植えられたのか、」「だれが植えたのか」で姦しかった。
答えは明白だ。
この駅が出来たのは昭和18年夏ごろ。中島飛行機の半田市進出に伴い新設されたのが乙川駅である。中島・半田製作所の社員の通勤のためと工場内への貨物車引き込み線の架設の都合で、同地を盛り土して線路面をかさ上げ、そこに駅を建てたのだ。それ以前のこの場所は低湿地、田にも沼にもならない土地だったという。
そこに中島飛行機は駅を新設した。
(国鉄ではなく、中島飛行機がすべて建設したという。「乙川駅の金庫から湯飲み茶碗まで、みな中島のものだ」との証言もある)
さて、「通勤者のための新設」は分かる。説明も不要だろう。
一方、「引き込み貨物線の架設の都合」は郷土史的で面白い。
それまでの武豊線の線路は低いところにあった。停車駅を造るだけなら低いところでも構わないのだが、そこから工場内へ汽車が入るには小さな土手を越えなければならない。ところが当時の機関車の馬力では、一旦低いところに停まってしまうと、小さな土手でも越えられなかったらしい。まして阿久比川の堤防は越えられない。
だから汽車を停める駅は高いところに作る必要があった。
そこで従来の線路面を数キロにわたり、凡そ1・4㍍づつ、かさ上げをして、その最高点に駅を造った。それが乙川駅である。
今、現地を見ても、阿久比川の堤防よりも、中島飛行機の工場面よりも随分と高い位置に駅がある。ここからならどこへ向かうにも下り斜面だ。機関車の負担はないだろう。
そうして駅が完成したのは昭和18年秋口。駅舎の前に桜の木を記念植樹したのだろう。当時の苗木、今は高さ10㍍もある大木になっている。すなわちこの木は樹齢73年となる。
はんだ郷土史研究会の例会で、これが話題になった時のこと。
ある人が、「これを植えたのは当時の駅長。間瀬さんだ」と発言した。すかさず会場から手が上がった。
「植えたのは間瀬駅長ではない。駅員だ!」。
暫し会場は沈黙の後、爆笑に包まれた。