吉原遊郭の揚屋 尾張屋清十郎の生家?
新吉原遊郭を支配した張本人、尾張屋清十郎。彼は尾張国知多郡須佐村の神職・禰宜左衛門の子であることが分かった。禰宜左衛門の神社は須佐村高浜の「土御前社」である。つまり清十郎の実家はここだったといえる。但し、清十郎がここに暮らしていた時の神社は写真の場所でなく、もっと山頂近くだった。
この土御前社は知多最古の寺「極楽寺」に隣接していて、ともに「求聞持山(ぐもんじ)」の山腹にある。
求聞持山の山頂には、昔、修験者が修行していた「五文敷」という聖地のような場所にあったことは『極楽寺の歴史』などで分かっていた。多くの修験者たちがここで心身を鍛えていたのだろう。
土御前社は切り立った山の上の社というから、小さな祠があるだけとの先入観をぼくは持っていた。だからわざわざ訪ねる気にもならないでいた。
『新吉原遊郭と尾張・南知多衆(仮題)』をいよいよ上梓する段階になって、一度行ってみるか、と重い腰を上げた。行ってびっくり、こんな立派な神社だった。
写真をみてほしい。
写真㊧の長い階段をどんどんと登るのだが、上部の左に小さくみえるのがかつての五文敷への登り口。鳥居がたっている。
写真㊥ 明治のものだが、「吉原」「松本」「家田」との家名。思いが巡る名前だ。
写真㊨ ここから数百歩上に「五文敷」があった。修験者の高下駄と法螺貝の音が聞こえそうだ。ついでに書くが写真の男はぼくである。杖もなしでスタスタ… ではないが元気なものだ。
尾張屋清十郎こと松本清十郎の生家はここかもしれない。生家でないとして、この地が彼の実家である可能性は極めて高い。
ここに何かの物的資料(エビデンス)が眠っている。そして、それがぼくに「おいで、おいで」をしているのである。