呉服座の奈落
明治村見学の第一志望は「金沢刑務所」だが、第二志望は「呉服座」。それも奈落を見たかった。
蛇足を書くが呉服座は大坂・池田の芝居小屋である。立派に移築されていた。
玄関には沢山の色紙が飾られていた。高名な歌舞伎役者やどこかで聞いたことのある大衆演劇役者。曾我廼家明蝶やエノケンもあった。
そんな劇場だったのだ。
詩人、歌人、物書きの類は「奈落」などという言葉に必要以上に反応する。そして感情過多になる傾向が強い。
少し良い言葉で正当化すると、作歌衝迫に陥る誘惑的な言葉なのだ。
奇物陳思にもってこいの語句なのだが、想いが強すぎて失敗するし、たちが悪いのは失敗しても、独りよがりがわからないことが多いから困る。
つまり、勝手に物語を創り上げ、勝手に納得するだけで、たいがいロクな作品は生まれない。
さて、
呉服座の舞台、花道、桟敷。
まだ往時の匂いが残っていた。
奈落に下りた。
舞台のセリ。その真下に、セリを回転させる大きな装置がある。長く太いハンドルといえる木の棒が4本。それを水平に廻すとセリが回ったり、上下したりする。
ハンドル棒の長さは4メートル近い。直系は50センチもあるだろ。早い話が電信柱だ。
もちろん人力での仕事だ。
おそらく7、8人もの屈強な男たちが全力でこの棒を押し、ぐるぐると歩きながらハンドルを回転させていたのだろう。
奈落から花道の下を伝う通路がある。
舞台の一幕の最中、奈落へ降りた役者がここを全力で走り、衣裳を変えて客席の後方の花道から、トトト、トンと見得を切って出るのだ。
客がどっと沸く見せ場だ。
ちょうどその頃、奈落の底では、ハンドルにもたれかかって、息を整える男たちがいるのだろう。
歓声は遠く聞こえて板の下
奈落に通る道はあるべし
でしょう、ロクな歌はできないね。