清水次郎長が産みの親
静岡の清水から「次郎長翁を知る会」の一行がこの12日に、半田・乙川にお見えになることになった。40数名の方々という。
見学先は「次郎長と久六の決闘の地」と「次郎長地蔵」(写真)だ。
西まさるがご案内することとなった。
なぜ西が?
お忘れですか、『次郎長と久六』は、ぼくの本。これがご縁で、ぼくは半田市の住民となり、早14年にもなりました。
次郎長と保下田の久六の決闘場所は、乙川の商業施設「パワードーム半田」の駐車場辺り。そして名刹・光照寺。その裏手にある庄屋家・杉浦善次郎邸。これらが舞台だった。
パワードームの地主は元半田市長の山田耕市さん。
光照寺の住職は、西川文雄さん(故人)。
庄屋の子孫は、杉浦格一さん。
そんな半田を代表する名士たちが取材に応じてくださり、資料もいただいた。この方たちが拙書の産みの親だ。
そして出版後、「町おこしの意味もあるので、もっと次郎長を宣伝したい」との名士たちの意見。そして、光照寺で「次郎長と久六 ー乙川の決闘ー」の講演会を開くこととなった。
ぼくは貧乏していたから本を売りたかった。その一念で引き受けた講演会だった。
清水市から「次郎長翁を知る会」の田口英嗣さんをお呼びした。氏とは拙書の取材で数度、清水にお邪魔して懇意になっていた。
西まさるとのダブル講演会。平成16年11月のことだ。
光照寺の本堂が会場。当初100席ほどの椅子が用意された。これで充分と思った。
ところがお客がぞろぞろ、ぞろぞろと続く。
急いで椅子の前に座布団を100枚余り敷く。それでも足らずに、立見が出る盛況だった。
嬉しかった。本が随分と売れた。
200名をはるかに超す人が集まってくれた講演会は大成功。期せずして翌日の新聞にも載った。
そして、そんな人たちの間から、「次郎長と郷土のことがはっきりと分かった」。さらに、「郷土の話をする会を作りたい」という声が出た。
それを受けたのがTさん。地元では名の知れた郷土史家だ。彼の肝いりで会が発足。当初「半田郷土史保存会」と言った。
ぼく、西まさるは、言いだしっぺではない。ただの客分。まして当時は半田に住んで1、2年。よそ者というより、旅行者の立ち位置だ。半田市の郷土史研究などできるわけはない。
本職が物書きで編集者だから、会報の制作をお手伝いするだけの参加だった。
ところが、一抜けた、二も抜けた、で、どんどん親分がいなくなる。今は親分不在の仲良しクラブ。
そして現在があるわけだ。(ぼくも歴代の親分のようにそっと抜けるチャンスを狙っている…)
だから、「はんだ郷土史研究会」の産みの親は、上記の次郎長所縁の名士たちと、清水次郎長(写真)なのである。
次郎長は三河の寺津に拠点を置き、主に知多半島で稼ぎ、清水に稼ぎを持って帰る。その繰り返しの侠客人生だったとみる。
知多半島では「次郎長」だが、清水では「次郎長さん」だ。
明治になって次郎長は実業家に転身。知多半島の中埜酢店、盛田と組み、清水や沼津に「中泉現金店」という、今のスーパーマーケット的な商法で、酒、味噌、醤油などを売る店を立ち上げている。
この12日には清水からのご一行。
15~16日には、沼津史談会のご一行が当会を訪ねてくれる。
これも次郎長さんの手の内なのだろうか。