狐 南吉の狐 鴉根の狐
きょうは訳のわからないことを書く。
ぼくが解らないのだから、読むあなたも解らないだろう。
でも、何か解ったら教えてほしい。
ことの発端は先週の『東海近世文学会』。島田大助先生のご発表は井原西鶴の「狐の四天王」の新解釈。狐のモデルは誰だ、四天王のモデルは誰だ、と興味深い新説で面白い。
これを書くと長くなるので割愛するとして、服部仁先生が「妖怪に狐はいないね。妖怪は猫、蛇、ガマがほとんど。狐は妖怪になっていない」に注目した。確かに「妖怪狐」はいない。せいぜい「狐の嫁取り」だけだ。
そんな議論を聞きながら、新美南吉はなぜ狐を多用したのだろうか、とぼくは考えていた。
南吉は自分の主張を擬人化した狐に代弁させている。だが、代弁者は狐でなくとも狸でもよかった。兎でも鳥でも猫でも悪くないはずだ。
でも南吉は狐を選んだ。
「ごん狐」ならぬ「ごん狸」じゃいけなかった?
「手袋を買う狐」が「狸」でも物語に問題はない。「下駄を履く」のも「油をなめる」のも、狐より狸の方がかえって絵になりそうだ。
そんなことを考えている。
訳がわからない?
そうでしょう、そうでしょう。ぼくも訳がわからない。
新美南吉が「狐」を選んだわけをどうぞ考えてみてほしい。どうぞご教示を。
挿絵は鴉根山の榊原弱者救済所に棲んでいた「三本足の狐」。これは実話で、南吉も知っていたはずだ。