終戦の日を書く、中島飛行機ノート
8月15日、終戦の日である。
反戦デモがあったり、靖国神社へ参拝したり、騒がしい日だ。
新聞各紙もこぞって「戦争特集」。ぼくのところにも戦争を知らない記者から取材の電話が入った。なんと東京新聞、朝日新聞だ。
戦争を知らないぼくは、戦争を知らない若い記者に、戦争についてとうとうと話した。
観念的な記事になるのは分かりきっている。
今年は観ていなかったが、甲子園の高校野球も正午に試合を中断して黙祷をしたのだろう。
黙祷する選手、審判は何を考えての1分間だろう。
平和を願ったのだろうか。次のバッターについての思案だろうか。
昭和20年の終戦の日、宮城前で人々が号泣する有名な写真は某新聞社のヤラセだったことは、どうやら事実のようだ。
上に掲載の写真も似たようなものだろう。
こざっぱりした服装、良い体格、ワンピース。焼け跡を逃げ回った人の恰好にはとても見えない。
以前、はんだ郷土史研究会で「あなたは終戦の日に玉音放送をライブで聴いたか」のアンケートをとったことがある。
最初、有効な年齢の人の大部分が「聴いた」と答えた。
更に質問を続けると、
「聴いたようだ」→「聴いた気がする」→「後年に録音を聴いた」に大半が変わった。
いい調査だった。
あの調査結果からすると、あの時、ラジオの前にいた人はおそらく、日本人の3割以下だったことになる。
人々の興味は国の明日より、わが家の明日の飯だったのだ。
当然である。
★
ぼくの手許に中島飛行機半田製作所の業務日誌がある。
昭和18年から昭和22年ごろまでのものだ。同社のトップ役員のノートだ。
ほぼ入手困難な極秘ノートだが、ある事情でいただいた。
昭和20年8月14日、即ち終戦の日の前日。彼ら中島飛行機の幹部は敗戦を知っていた。
そして、敗戦後の会社の存続に腐心すると同時に、その障害となるものを排除しようとしていた。
極秘資料の隠蔽とその方法。
朝鮮人徴用工たちの対策。
山のような現金=札束の処置。
生々しい記録。
実に生々しく、興味深い。
もっと書きたいがここまでにする。
写真はその中島ノート。むろん一部である。
見せてくれと言っても見せないよ。