行基と黒鍬
行基伝説が知多半島各地に残っている。
なかなか面白いと興味をもって少し調べている。これの答えは、「行基」=「大阪・狭山池」=「知多半島の黒鍬衆」であることは、まず間違えないだろう。
ぼくは物書きだから、すぐ筋書きを作りたがる傾向にあって、学者の先生方からいつも眉をひそめられているが、この筋立てにはちょっとした自信があるのだ。
詳しくは、そのうちちゃんとした文章にするが、要はこういうこと。
行基は、日本初のダム式ため池、狭山池の工事を指導している。その池の工事を施工したのは知多の黒鍬衆。これらは記録も残る事実。長期に亘る大工事の間に、黒鍬衆は行基の影響を受けて、それを故郷知多半島に持ち帰っていた。
当たり前のことだ。
さて、写真の一つは半田市の鳳出観音教会にある「行基廟塔」(廟は旧字)。
もう一つは、半田市鴉根の榊原弱者救済所跡にある「南無阿弥陀仏」の塔。
明治後期、半田市成岩橋のたもとにあった成岩村の墓地に2基並んで建てられていたという。これはぼくの仮説にしたがえば成岩村にも黒鍬衆がいたということに繋がることだ。
墓地の移転に伴い、石塔を2箇所に分けて移設され、現在に至っている。鳳出観音のものは境内にあるからいつでも見れる。鴉根のものは12月5日に見られる。
ともあれ、行基などという大人物がみえる歴史は面白い。