鴉根・榊原弱者救済所跡公園

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 いよいよ、半田市鴉根の丘にある竹林を開き、そこに「榊原弱者救済所跡公園(仮称)」を造ることが決まった。

 決まったといっても確かな事業計画も資金計画もない。
 そこで「こんな公園にしたいイラスト」を作った。

 鴉根の丘にはこんな歴史がある。

 ①、江戸時代までは民家が数軒しかない丘陵地だった。
 ②、でも、そこには衣浦湾、三河湾からも見える松の大木「鴻の松」がそびえ立ち、成岩町のシンボルだった。
 その松は廻船航行の道標にもなっていた。
 ③、明治32年、榊原亀三郎が若者30名を連れて鴉根の丘を開墾。恵まれない人のための〝新しい村〟「榊原弱者救済所」を開いた。
 以来、昭和6年まで活動、1万5千人もの弱者を救った。
 ここには全国から著名人が視察に多く訪れている。
 ④、亀三郎死後の昭和10年、日本一の飼料会社・杉治商会が救済所跡を買収、「畜産研究所」を建てた。360万坪の広大な施設だ。
 ⑤、この畜産研究所に新美南吉が就職、昭和12年9月から翌年3月まで鴉根の宿舎で暮らしている。南吉の日記によると、自転車で方々を見て廻っている。
 南吉の名作「狐」は鴉根を舞台にしている。作品に登場の「足の悪い狐」は、弱者救済所の「三本足の狐」がモデルだろう。
 ⑥、昭和18年、日本最大の航空機メーカー・中島飛行機が半田市に進出した。従業員の食糧確保のため、杉治商会の鴉根の研究所一帯を買収、同社の農場・牧場にした。
 ⑦、終戦。
  戦場よりの引揚者、戦災未亡人や母子家庭のための「半田寮」が鴉根の丘に建った。
 ⑧、おまけに、常滑焼きの名品「藻掛けの急須」は、ここ鴉根で採れる「板山土」でしかできないそうだ。発見は二代目伊奈長三。今のイナックスの先達だ。常滑焼きと鴉根も切っても切れない関係があったわけだ。

 こんな鴉根の歴史をパネルにして展示、若いお母さん方が子どもを連れてこれを見る。
 「へぇ~、鴉根ってこんな歴史があるんだ。南吉も? 鴉根も捨てたもんじゃないね」
 てな会話が飛び交う公園にしたいと思っている。

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