終戦の日

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 8月15日は終戦の日。今年は66回目となる。
 いつもこの日になると、添付の写真が気になって取り出している。
 焼け野原の東京。燃えずに残った国会議事堂。そのすぐ上を誇らしげに飛ぶ大型飛行機。当然米軍機だろう。

 この日から日本の復興が始まったわけだ。

 戦争は多くの犠牲、遺恨を生んだろう。
 そういう僕は、戦争を知らない子どもなのだが、戦争の傷跡はよく見て、よく聞いて知っている。

 内緒話を一つ披露しよう。
 僕の叔父さんは陸軍士官学校出の職業軍人。玉砕の激戦地・ニューギニアの生き残りだ。ニューギニアの戦闘中に負傷。気がついたら病院のベットの上。それも日本・内地だったという。終戦はそこで迎えた。
 「何千人という部下を死なせて、自分は生き残ってしまった…」
 それを一生の悔いとして戦死した部下の慰問、遺族へのお侘びに残りの人生を捧げた。
 田畑を10枚も売って慰問の費用に充てたことは縁者なら誰でも知っている。
 「南雲(海軍中将)さえ失敗しなければ日本は負けなかった! 南雲の野郎!」と口癖のように言っていたのをよく覚えている。

 僕の義父・即ち女房の父親は学生時代から筋金入りの反戦論者だった。
 召集令状が来た際、「醤油を一升近くも飲んで黄疸症状をつくり徴兵を逃れた」人だ。巷の噂に聞いていた「醤油を飲んで―」の実行者がまさか僕の父とは… 
 びっくりしたものだ。
 義父の思想、即ち「主権は在民にのみある。権力の一方的な集中は禍を招く」論は、終戦後も徹底していて、その娘たち(わが女房ら)はテレビの「皇室アルバム」も観たことがない。「皇室」が映るとすぐチャンネルを変えられたという。

 そんな叔父さん、義父さんだが、僕は二人とも大好きだ。
 自分の主義主張を明確にする姿勢は心から尊敬できる。

 だが、陸軍大隊長の叔父は何千人の部下の死を自分の傷みとして残りの半生を生き、反戦大学生だった義父は、非国民との蔑みに耐えて生きていたのである。

 どちらも決して、勝利者ではない。

 きょう8月15日。

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