榊原弱者救済所跡

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 半田市鴉根の榊原弱者救済所跡は史跡公園として十分に活用され始めた。
 鴉根地区の住民のみなさまのおかげだ。
 先日、テレビの収録もあって数ヶ月ぶりに現地に行った。
 公園の通路は清掃され、花壇にも通路にも花が植えられ、ちゃんと日常的に手入れがなされていることは一目瞭然だ。
 うれしかった。ありがたかった。

 あちこちに植えられている黄色い花が咲き誇っていた。
 花の名は苦手だが、たぶん、すみれの種類だろう。
 救済所跡には黄色い花が似合う。
 やはり幸せの色なのだろう。黄色は。

 今から90年ほど前の救済所の写真が上だ。
 一面の広場はグランド。亀三郎は運道場と名づけた。運“道場”である。
 身体と心を鍛えるグランドという意識付けなのだろう。
 左にはノボリと子どものためのブランコが見える。

 写真撮影のために並んでいる人たちの右の方に、野良着の亀三郎が立っている。
 婦人、子どもたちは20名ほど、だれもが亀三郎の家族。
 子たちは孤児、捨て子。ここが故郷の子どもたちなのだ。

 右上の小高い場所に“芳名碑”が見える。救済所を支援してくれた人の名が91名刻んであるものだ。
 国会議員、政府高官、高僧、豪商もいれば、アウトローや当時、敬遠されていた社会主義運動家の名もある。
 貧富や社会地位など無関係。実に亀三郎らしい主張がこもった芳名碑だ。
 一見の価値はありますぞ。

 今、その芳名碑は移築され史跡公園にある。掲示した現在の写真の場所。
 この地に、亀三郎の福祉の心と弱者救済の義侠心が残らねばならない。
 そして、その心は、広く広く伝わらなければいけない。

 昔、こんな短歌を作った。
 まだ亀三郎も知らない頃の作品だが、この場所にぴったりと感じ、僭越ながら史跡公園の案内板に書かせてもらっている。
 この弱者救済所後保存事業に多少なりとも汗をかいたぼくの、たった一つの自己主張である。

 前衛っぽい歌で分かりにくいだろうが、ぼんやりでいい、ご記憶願いたい。
 歌の解説は野暮だからしないが、「わざうた」は、社会詠あるいは檄文のようなもの、と読んでいただきたい。

   落ちし実の 土のおもてにあらばこそ 
              携えてゆく ひとつわざうた

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